神を探し求めていた日々


10年程前、私は夫の転勤で、沖縄に4年間位住んでいました。

四方を海に囲まれた島、その青い青い海に真っ赤な太陽がキラキラと輝きながら沈んでいく・・・
そんな素晴らしく大きな夕日を、毎日飽きもせず眺めていました。その姿はとても神々しいものでした。
そしていつしか夕日に向かい「今日も一日ありがとうございました。明日もどうか元気ですごせますよう、お守りください。」と語りかけるようになっていったのです。

 そんなある日、私は”愛と慈悲の心を持って癒しなさい”というメッセージを聞いたのです。
一瞬「えっ!?」とその時は思いましたが、いつしか時が経つにつれ、私はその言葉を忘れてしまっていました。

 するとまた”愛と慈悲の心を持って癒しなさい”と響くのです。
その頃から私は、親類の人が亡くなったりすると、その人の霊が私に遺言を語りかけてくるようになりました。でもそれは一方通行で、亡くなった霊が話したい時に勝手に語りかけてくるだけで、私の方から話したりすることは出来ませんでした。

 私は、「私が語りかけた時、答えて欲しい。」と思うようになりました。私が知りたい時・・・・というよりも、私が苦しい時、淋しいとき、辛い時、「神様、あなたの声が聞きたい!!」と。

 それからは私の、神を捜し求める日々が始まったのです。というより、本当はもっともっと小さい頃から、私は神を求めていたような気がします。

 私は気功、太極拳、***呼吸法をはじめ、精神世界のいろいろなものに首を突っ込み、
あるものは半年、あるものは2〜3年、これも違う、これも一寸違う・・と遍歴を重ねてゆき、どれも、気の流れがよくなったり、体調が良くなったりしても、心まで・・・私の心の奥に吹く木枯らしをかき消すまでは出来ず、ましてや、神の声を聞くこととは程遠く、諦めかけました。

 そんな時、私は”愛と慈悲の心を持って癒す”のであれば、お年寄りの介護ならいいかしら・・・とヘルパーの勉強をし、近くの老人ホームにボランティアに行ったり、フォスターペアレントとして異国の少女と出会ったりしていました。

 それはそれで、私への大きな励ましとなりましたが、でもやはり私の心の奥から沸き出でるものとは、少し違ったのです。

 諦めかけ、「もう、体に良くて楽しければいい。」とまた、呼吸法に通いはじめ、走ったり、笑ったり、楽しい日々を過ごしていた時、運命の出会いをしたのです。
 でも、その人は出会って間もなく「私は次に進む事にしたの。 呼吸法は卒業にします。」と、さっさとやめて行ってしまいました。


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